腰痛・肩こりの秘伝漢方店長新聞記事詳細 

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「そらドリブル、打てっ」「ナイスシュート!」。福岡市南区の幼稚園。ボールを追って園児たちとグラントを駆け回る張軍さん(三二)の掛け声が響く。張さんはサッカーのU19(十九歳以下)中国代表だった。ナショナルチーム代表まであと一歩のところでひざを痛め、引退。八年前に来日し、指導者として再起を目指している。

 張さんは中国・天津市生まれ。サッカーファンだった父親の張維茂さん(六三)は当時、中国最強といわれた人民解放軍チームにちなんで息子に「軍」と名付けた。

 五歳からサッカーを始め、十三歳で天津市ジュニア選抜入り。その後も、右足から繰り出す正確なパスと巧みなボディーバランスで頭角を現し、十八歳の時にボランチ(守備的MF)としてU19中国代表入りを果たした。

 国内で試合をこなすうち、今度はサッカー先進国、オランダ留学の切符をつかみ四人のチームメードとともに欧州へ。オランダ北部のフローニンゲンを拠点に一年半にわたり、各地のプロ・サテライト(二軍)チームの練習に参加した。

 オランダでは一軒家を借り共同生活を送っていたが、隣近所の人たちと片言の英語で話したり、中華料理をおすそ分けしたりするうちに、住民が中国応援団をつくって練習試合で励ましてくれた。

帰国間際、張さんにはあるチームからプロ契約の打診もあったが、中国は当時まだ、プロ選手を認めておらず立ち消えに。しかし、世界的な強豪チームアヤックスのヘットコーチが「サッカーに国境はない」という言葉を実感した留学生活だったという。

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 その張さんがアクシデントに見舞われたのは、バルセロナ五輪(一九九二年)のアジア地区予選に備えた代表候補合宿のとき。練習中にスライディングタックルを受け、左ひざの半月板とじん帯を損傷。全治二か月の重傷で、五輪代表からもはずれた。サッカー選手として始めて味わう挫折だった。

 さらに九三年の全国大会に天津代表として出場した際、同じ左ひざを負傷、選手生命を断たれた。失意の張さんに父親の維茂さん「日本に行って指導者としての勉強をしては」と促した。

 日本では初のプロリーグ、Jリーグが誕生。ジーコ(ブラジル)、リネカー(英国)、リトバルスキー(ドイツ)などスター選手がそろっていた。「よし日本へ行こう」。一時は欧州行きも考えた張さんの闘志に新たな火がついた。弟の健さん(二八)が九州大に留学、経済学を学んでいたことも張さんの日本行きを後押しした。

 同年十一月に来日し、弟と二人暮らしをしながら日本語を学び、福岡大で四年間体育学を専攻した。今は福岡市の「スポーツクラブあじさい」のコーチとして、福岡県内の幼稚園や小学校で子どもたちにサッカーを教えている。

 留学生仲間に呼びかけ、在日外国人や日本人によるサッカーチーム「ワン・ワールド」も結成した。県内で行なわれる五人制サッカー・フットサルの大会では、上位進出の常連となった。

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中国は、サッカーでの五輪出場は一度だけ。ワールドカップ(W杯)出場はない。日本も九八年のフランスW杯に初出場したばかり。アジアにとってまだまだ厚い。張さんは「自分の経験や知識をアジアのサッカー強化に生かすことができれば」と語り、将来、中国と日本の双方でサッカースクールを開き、交流試合をことを夢見ている。

 来年のW杯は日韓共催で行なわれる。漢方医で天津医科大教授だった維茂さんには、中国代表のチームドクター就任の要請が来ているという。母国の代表が初のW杯予選突破を果たせば、父親と息子が日本で再会を果たす日が来るかもしれない。